品川で子育てしているSEのゆるゆる芋づる式日記

5歳3歳ボーイズを育てながら、中古マンションを新築そっくりさんでリノベーションしました!一応東大卒なフルタイムワーキングマザーの日常ブログです。

父のこと

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※この記事は、「人(親)が亡くなる事」について書かれています。強いストレスを感じそうな方は、なにとぞお避けください。



昨日の昼休み、とても辛いニュースを聞いた。たまたま食堂で隣の人が話しているのが聞こえてしまった。

とても動揺したが、何か見ると涙がこぼれそうなので、いつも通りに仕事をして、いつもの時間に保育園に息子を迎えに行き、帰ってNHKニュースをつけた。涙が止まらなかった。

アナウンサーは淡々と読み上げていたけど、瞬きがいつもより多く、声のトーンもこわばっていて、少し上を向いているのは何かをこらえているように見えた。

特に詳しいとかよく見ていた、という訳ではないけど、一生懸命生きようとしていた人が、それも若い人が亡くなるのはやるせない。

私は普段、ブログやSNSでは極力辛いニュースに触れないようにしたいと思っている。自分自身がを見たくないからだ。

ただ、昨日はどうしても父の事を思い出さずにはいられず、父の事を話したいと思った。話したいというか、吐き出したいに近いかもしれない。本当に個人的な話なのだけれど。

私の父は、私が中学生だったある年末、病気で亡くなった。胃がんだった。もともと全然病弱ではなく、亡くなる1年前はぴんぴんしていた。詳細はいまだによく分かっていないが、おそらく年初に異変が見つかり、春ごろに入院。夏にいったん帰宅できたが、秋になってまた入院し、そのまま病院で亡くなった。

私は父が余命いくばくもない事は全く知らされておらず、父がもう回復できない事を知ったのは亡くなった当日の事だった。夏に家に戻った時は瘦せたなと思ったし、好きだったお酒もタバコもやめていたけど、そこまでとは思いもしなかった。

急いで病院に行きなさい、と言われて病院に行ったら父が苦しそうになんとか呼吸をしていた。そして母から「お父さんとはもうお別れ。ごめんね」というメモを渡された。その後はあっと言う間だった。

突然過ぎて、全く理解できなかった。

父は裁判官だった。裁判官、というとどんなイメージを抱かれるだろう。「高潔」?それとも、最近は時折変な人がニュースになるので「勉強はできたけど世間知らず」とか?

父はたぶんどちらでも無かったと思う。物凄い努力をして念願の職業につき、一生懸命に働いていたのは間違いない。研修所の教官をしていた時期があったが、研修生の出したレポートの添削をし過ぎてレポートが真っ赤になり、さらに返してから思い直して「やっぱりこうだと思う」と伝え直していた、という話を亡くなってから聞いて、父らしいと思った。

家庭人としても、子どもの面倒はよく見る方だったと思う。母に言わせれば家事は全然しないのにやってる風、だったらしいけど。勉強を見てくれたり、夏休みには家族全員で山登りに行って飯盒炊爨したり・・・と思い出はかなりある。

ただ一方で、タバコは妻にいくら怒られてもやめられず、書斎は足の踏み場もない位散らかっていたし、酔って帰るとうるさかったし、気分屋で自分が計画したお出かけの時に子ども達がダラダラしていると拗ねてふて寝してしまう・・・という「ダメ」な部分もふんだんにあった。地方出身故のコンプレックスも結構強かったらしい。

そんな感じで聖人君子とは言い難い父だったが、だからといって40ちょっとで亡くならなければならない理由はなく、納得がいかなかった。確かに仕事し過ぎで不摂生だったかも知れないし、実は繊細な分ストレスも多かったのかも知れない。タバコやお酒もよくなかったかも知れない。ただ、そんな人は父だけではないはずで、自分はどうしても受け入れる事ができなかった。折角頑張って生きて、これからっていう時に死んじゃって、理不尽としか思えない。

斎場に向かう車の中で、当時小学生だった妹が「お父さんはきっと空から見てくれている」といった事を言っていて、「バカか、死んじゃったらおしまいだ。見てくれていたって話せなかったら意味ないじゃないか」と内心腹が立ち、そしてまた「おしまい」という事実に辛くなり、何も言わないでいた。妹は「お姉ちゃんはお父さんが亡くなったのにあまり悲しんでいない」と思ったらしい。ただ、言えなかっただけなんだけど。

自分より辛いに決まっていると思ったので、母には何も言えなかった。同級生にも気を遣わせてしまうしそもそも伝えられないと思った。勿論とても泣いたけど、その時思った事をもっと言葉にしていたらよかったのかなぁ、と今となっては思う。

ただ、母に対しては、だんだん、「なぜ言ってくれなかったのか」という思いが募ってきてしまった。そうすれば、もっと色々な事を話せたしお見舞いにももっと行ったのに、と。

私がこの時の絶望感を克服できた・・・と感じたのはそれから8年程経って、大学生になって「対象喪失」という本を読んでの事だった。
対象喪失|新書|中央公論新社

今となっては内容をあまり覚えてなくてどうも申し訳ないのだが・・・。自分の感じていたものが何かという事が分かった事、それなりの年月が経った事で、やっと「受け入れる」事ができたんだと思う。

母にも、ごにょごにょ、言って欲しかったのだと伝える事ができた。「ごめんね、言えなかったの」と言われて理解できた。「言霊」になってしまうのを恐れたのだろう、と。まぁそれでも言って欲しかったんだけれども。

母は公務員として再就職でき、父に負けず劣らず必死に働いた。おかげで特に金銭的に不自由もせず塾にも行けて、浪人もさせてもらって大学に行く事ができた。そういう意味では境遇の割に私はかなり恵まれていたと思う。それでこの上文句を言うのは人としていかがなもんかと。

父の死によって私が知ったのは、「一生懸命生きても、よく生きても、長生きできるとは限らない」という事、「自分だけが大丈夫、なんてことはない」という事。勿論、健康に気をつけている方が確率的には長生きできると思うけど。

若くして亡くなると、つい、人はそこに「理由」をつけてしまう気がする。何か納得する為の理由。ひどい人だったからだ、とか何か落ち度があったからだ、とする事によって、あるいは亡くなる事で誰かの為になったのだ、とする事によって、「仕方がない」と思おうとする。

自分はそう考えてしまうのはそれこそ仕方がないのかな、と思うけど、実のところ理由は無いのではないかと思う。少なくとも父に対して理由づけをするのは嫌だと思う。


最近、ある人のブログで、どんな辛い事も時間が経てばいつか乗り越えられる、という文章を読んだ。半分はそうだ、と思うし、半分はどうだろう、と思う。(きっと色々裏付けるような経験をされてきたのだろうと思う。)

祖父(父の父)は、父が亡くなってほどなくしてボケてしまった。(その方が幸せだったのかもしれない。)

私自身は今現在、自分で言うのもなんだけどとても精神的に安定していて、なんなら図々しいおばちゃんになりつつある。

でも、時折強いストレスを感じるとぎっくり腰のように頭が真っ白になる事があって、どこか抱えてしまったままなのかな、と思ったりする。(生来のものかも知れないけど。)

時折、息子の事が心配過ぎてあんまり長生きしなくてもいいかなぁと思う事がある。でも、息子には自分の事で辛い思いはして欲しくないので、それなりに長生きできるようにしたいな、と思い直す。

とても無念だったろう。ただ、思いを一生懸命形にして残してあげた事が残された人にとってわずかでも救いになれば・・・と思う。
ご冥福をお祈りいたします。